第1章 1987~1990 出会い、そしてプロの道へ
1987年 夏 神奈川工科大学舞踏研究部2年生になった私(八幡 茂)は、
パートナー校の和泉短期大学に入学し、ダンスを始めてわずか4カ月
の美佐子とカップルを組み、1ヶ月半後にせまった東部2部学生競技
ダンス選手権に向けて練習を始めることになりました。
とにかく夏休みの間中、毎日教室に通っていました。
そして迎えた初めての試合。結果は東部2部学生競技ダンス選手権おいて、
ルンバの部第2位という好成績でのデビュー。
以降、秋の東都学生競技ダンス選手権ルンバの部第5位、
全日本学生競技ダンス選手権ルンバの部12位と、
1年生と2年生のペアとして抜群の存在感を発揮した1年になったと思っています。
1988年 春の東都学生競技ダンス選手権ではルンバとチャチャチャの部で
第2位に、つづくラテン新人戦そして東部Jr戦では優勝。
またアマチュアD級戦ラテン優勝、三笠宮杯ヤングスターの部優勝と
勢いは衰えず、気持はプロに転向する方向に大きく傾き始めました。
プロになることを決意して臨んだ東部学生競技ダンス選手権で、
得意としていたルンバの部は最後まで第2位のままでしたが、
チャチャチャの部で念願の優勝。学生チャンピオンの肩書を持って8月、
恩師 昭元 剛先生が経営するダンススタジオ昭元 剛に入社、
9月18日のプロノービス級ラテンにおいて第2位となりプロとしての第一歩を歩み始めました。
1989年 D級ラテン第5位、NATD杯第4位など着実に実力をつけ
1年でC級に昇級。一日でも早く留学したいとの思いから、
とにかく節約してお金を貯める日々でした。
未来のコーチャーを想像しながら、
でも未だこの時は誰に習いに行くのかは決まっていませんでした。
1990年 ボールルームダンスアカデミー新人賞受賞、
NATD杯優勝などもありましたが、C級ラテンは前期・後期共に準決勝止まり、
B級昇級は翌年以降に持ち越すことになりました。
そして初めての留学に向けて行動を開始した年でもあります。
まだ会ったことのないラルフとの連絡はエアメールの時代でした。
「ラルフがあってるんじゃない?」と言う先輩の先生の言葉を信じ、
辞書を引きながら手紙を書いた記憶があります。
手紙を書いて航空便で送ると返事が戻ってくるまでに3週間以上かかる、
そんな時代でした。あっという間の1年を期待と不安で胸をときめかせながら過ごした、そんな1年でした。
パートナー校の和泉短期大学に入学し、ダンスを始めてわずか4カ月
の美佐子とカップルを組み、1ヶ月半後にせまった東部2部学生競技
ダンス選手権に向けて練習を始めることになりました。
とにかく夏休みの間中、毎日教室に通っていました。
そして迎えた初めての試合。結果は東部2部学生競技ダンス選手権おいて、
ルンバの部第2位という好成績でのデビュー。
以降、秋の東都学生競技ダンス選手権ルンバの部第5位、
全日本学生競技ダンス選手権ルンバの部12位と、
1年生と2年生のペアとして抜群の存在感を発揮した1年になったと思っています。
1988年 春の東都学生競技ダンス選手権ではルンバとチャチャチャの部で
第2位に、つづくラテン新人戦そして東部Jr戦では優勝。
またアマチュアD級戦ラテン優勝、三笠宮杯ヤングスターの部優勝と
勢いは衰えず、気持はプロに転向する方向に大きく傾き始めました。
プロになることを決意して臨んだ東部学生競技ダンス選手権で、
得意としていたルンバの部は最後まで第2位のままでしたが、
チャチャチャの部で念願の優勝。学生チャンピオンの肩書を持って8月、
恩師 昭元 剛先生が経営するダンススタジオ昭元 剛に入社、
9月18日のプロノービス級ラテンにおいて第2位となりプロとしての第一歩を歩み始めました。
1989年 D級ラテン第5位、NATD杯第4位など着実に実力をつけ
1年でC級に昇級。一日でも早く留学したいとの思いから、
とにかく節約してお金を貯める日々でした。
未来のコーチャーを想像しながら、
でも未だこの時は誰に習いに行くのかは決まっていませんでした。
1990年 ボールルームダンスアカデミー新人賞受賞、
NATD杯優勝などもありましたが、C級ラテンは前期・後期共に準決勝止まり、
B級昇級は翌年以降に持ち越すことになりました。
そして初めての留学に向けて行動を開始した年でもあります。
まだ会ったことのないラルフとの連絡はエアメールの時代でした。
「ラルフがあってるんじゃない?」と言う先輩の先生の言葉を信じ、
辞書を引きながら手紙を書いた記憶があります。
手紙を書いて航空便で送ると返事が戻ってくるまでに3週間以上かかる、
そんな時代でした。あっという間の1年を期待と不安で胸をときめかせながら過ごした、そんな1年でした。