第2章 1991~1995 初めての留学、そして選択
1991年 ラルフレピーネとの出会いは私達の人生にとってかけがえのないものになりました。
初めてのドイツ留学を終えて挑んだC級ラテンで第3位になりB級昇級を決め、
以後毎年ドイツに足を運ぶことになっていきます。
1992年 ドイツでの日々はいろんな経験を与えてくれました。
なかでもラルフがラテンショーダンス世界選手権で優勝した時のことですが、
ラルフと一緒にボンの空港に帰ってくると大勢の出迎えの人々がシャンパンを片手に大歓声。 本当にその光景に憧れました。いつかは自分も、と思い夢を膨らませたのを覚えています。
この年はB級ラテン前期・後期共に準決勝止まり、力を蓄える1年でした。
1993年 B級ラテン前期・後期共に第4位、日本インターナショナル選手権・全日本選手権共に準々決勝に入賞しA級昇級。
初の海外試合となったブラックプールダンス選手権でチャチャチャとサンバの2種目でベスト48に残り、手ごたえを掴んだ1年でした。
1994年 ボールルームダンスアカデミー躍進賞受賞、A級選手1年目となる初めの試合、 スーパージャパンカップ選手権で準決勝入賞、続くブラックプールダンス選手権では チャチャチャ・ルンバ・パソドブレの3種目でベスト48に残り、
東京選手権第3位とA級選手1年目としては上々の滑り出しだったと思います。そしてJDC発足。時代は大きく動いて行きました。
そして第1回JDC全日本オープン選手権、当時不動のファイナリストだった 大竹辰郎組、楠潤一郎組、安東寿展組、二ッ森亨組、佐藤明彦組と共に第6位入賞。
全日本のファイナリストとしてのスタートの年になりました。
1995年 年初めのU・K戦ラテンライジングスターでは日本人でただ一人準決勝に入賞、 海外で初めての賞金を貰い、夢は膨らむばかり。
東京選手権ではひとつ順位を上げ第2位、
第2回JDC全日本オープン選手権では2つ順位を上げ第4位、そしてこの年ついに大きな決断をする時がやってきました。
JBDFに残り歴史ある団体で頑張っていくか?JDCに移籍し海外に活躍の場を求めていくか? 答えは決まっていました。なぜなら、私の夢は世界選手権でセンターポールに日の丸を掲げ、君が代を斉唱する。
ボンの空港でラルフに憧れてからずっとそのために頑張ってきました。
世界選手権の代表選考会であるJDCの試合に出場することは夢の実現には必要不可欠なことでした。
1992年 ドイツでの日々はいろんな経験を与えてくれました。
なかでもラルフがラテンショーダンス世界選手権で優勝した時のことですが、
ラルフと一緒にボンの空港に帰ってくると大勢の出迎えの人々がシャンパンを片手に大歓声。 本当にその光景に憧れました。いつかは自分も、と思い夢を膨らませたのを覚えています。
この年はB級ラテン前期・後期共に準決勝止まり、力を蓄える1年でした。
1993年 B級ラテン前期・後期共に第4位、日本インターナショナル選手権・全日本選手権共に準々決勝に入賞しA級昇級。
初の海外試合となったブラックプールダンス選手権でチャチャチャとサンバの2種目でベスト48に残り、手ごたえを掴んだ1年でした。
1994年 ボールルームダンスアカデミー躍進賞受賞、A級選手1年目となる初めの試合、 スーパージャパンカップ選手権で準決勝入賞、続くブラックプールダンス選手権では チャチャチャ・ルンバ・パソドブレの3種目でベスト48に残り、
東京選手権第3位とA級選手1年目としては上々の滑り出しだったと思います。そしてJDC発足。時代は大きく動いて行きました。
そして第1回JDC全日本オープン選手権、当時不動のファイナリストだった 大竹辰郎組、楠潤一郎組、安東寿展組、二ッ森亨組、佐藤明彦組と共に第6位入賞。
全日本のファイナリストとしてのスタートの年になりました。
1995年 年初めのU・K戦ラテンライジングスターでは日本人でただ一人準決勝に入賞、 海外で初めての賞金を貰い、夢は膨らむばかり。
東京選手権ではひとつ順位を上げ第2位、
第2回JDC全日本オープン選手権では2つ順位を上げ第4位、そしてこの年ついに大きな決断をする時がやってきました。
JBDFに残り歴史ある団体で頑張っていくか?JDCに移籍し海外に活躍の場を求めていくか? 答えは決まっていました。なぜなら、私の夢は世界選手権でセンターポールに日の丸を掲げ、君が代を斉唱する。
ボンの空港でラルフに憧れてからずっとそのために頑張ってきました。
世界選手権の代表選考会であるJDCの試合に出場することは夢の実現には必要不可欠なことでした。