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ホーム > 八幡 茂・美佐子組 競技選手としての19年間の軌跡

第3章 1996~2001 痛みを乗り越え 夢へ

    1996年 JDCに移籍した1年目イーストジャパン選手権及び関東ダンス選手権で初優勝、初めてのビックタイトルを手にしました。
しかし美佐子が胸椎ヘルニアを発症、以後長く辛い日々の始まりでした。


    1997年 辛いリハビリを乗り越え、ラルフの紹介でドイツにドクターも見つけ、短期間なら毎週治療を受けながらもドイツ留学を再開できるまでになりました。そして迎えたジャーマンオープン選手権ライジングスターで当時のロシアチャンピオンやスロベニアチャンピオンを抑えての優勝。表彰台の一番上に立ち、後ろで日の丸が揚がって、バンドが君が代の演奏を始めた時、JDC移籍の決断をし、海外の試合に戦いを挑んで本当に良かったと思いました。
(当時WDCの試合に出場するためにはJDCに加盟する必要がありました)

*WDCとは世界選手権を開催する組織でドイツやアメリカ、イタリア、ロシアなどほとんどの国が加盟していました、またそれらの試合に出場する為にはメンバー登録が必要でした。もちろんイギリスも加盟していましたがWDC発足以前の試合としてU・K選手権やブラックプールダンス大会などは例外として何故かJDC登録選手以外の選手の出場が可能になっていました。ダンス発祥の地は特別だったようです。


    1998年 ドイツ国内の小さな試合で数多くファイナルを踊り経験を積み重ね、迎えた2度目のジャーマンオープン選手権、その年のショーダンス世界選手権第3位のロシアチャンピオン、後のショーダンス世界選手権優勝のスロベニアチャンピオンを抑えてショーダンスで優勝。本当にこの年は日本代表になって世界選手権に行きたかった。2度目の表彰台の真ん中で君が代を歌いながら次は日の丸を背負って世界選手権でここに立ちたいと思っていました。


    1999年 ドイツ以外の国の試合にも出場できる位、美佐子のヘルニアの調子も良くなり久し振りのU・K戦ライジングスターで2度目の準決勝入賞、ドイツですでに高額の賞金を頂いていたけどイギリスの大会で賞金が取れるのはやはり嬉しいものです。なぜならイギリスのヒースロー空港の入国審査で必ず何しに来たのか尋ねられ、ダンスの試合に来た。と言うと、賞金を持って帰るのか?と言ってきます。その時にイエス、オフコースと言って少し日本人を馬鹿にしているような入国管理官に言ってあげると、精々頑張ってねって冷やかされるのですが、出国の時はしてやったりと思って飛行機に乗り込んでいました。


    2000年 統一全日本がスタートした記念すべき年です。6年間JDCのファイナリストとして踊ってきたプライドを持って挑んだ初めての全日本戦。結果は残念ながら準決勝止まりでしたが、久しぶりにまた大勢の友人と日本国内で同じ試合に出場できてとてもエキサイトした試合でした。


    2001年 1997年から5年間ジャーマンオープン選手権ショーダンスでファイナルを踊り続けてきた事がついに実を結び、全日本ショーダンス世界選手権で第2位となり念願の日本代表として世界選手権に出場する切符を手に入れることが出来ました。ボンの空港で夢を見てから10年、夢の実現まであと一歩のところまでやってきました。


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